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借地借家法の概要Land and House Lease Law


(1) 借地借家法の目的

借地借家法はその第1条に「この法律は、建物の所有を目的とする地上権及び土地の賃借権の存続期間'効力等並びに建物の賃貸借の契約の更新'効力等に関し特別の定めをするとともに、借地条件の変更等の裁判手続に関し必要な事項を定めるものとする。」として趣旨を定めている。

この規定により示されたものは以下の通りである。

第一に、建物の所有を目的とする土地の利用権としての適用範囲を地上権と賃借権とに限定している。逆説的に言えば、民法に定める使用借権を外している。というのは、使用借権は特殊な関係者間に生ずる権利であり、特に強行規定を設けてまでも存続期間・効力等につき民法に対する特別規定を置く必要もないからである。この点は、旧建物保護法でも旧借地法でも'権利の種類を地上権または土地賃借権に限定していたので、これが踏襲されている。
また、地上権が定められた理由は、地上権は強い権利であるが民法に詳細な規定が存在するわけではないからである。
さらに、土地賃借権については民法にも詳細な規定が置かれているが、利用権としては極めて劣弱であり、土地賃借人を保護する規定が必要であった。

第二に、他人所有の建物の利用権は、民法上はもとより、旧借地法上も賃借権だけであり、物権的利用権は認められていない。そこで、本法も建物については、賃貸借に関する事項のみを対象として特別の定めを置く。この点は、旧借家法と同じである。
建物賃借人の権利義務に関しては民法にも定めがあるが、その歴史的な経緯から賃貸人と賃借人が対等な立場で契約の成立と履行をなすことを前提としており、経済的な格差による是正措置がない。そこで、このような格差を是正し、主に建物賃借人を保護するために借地借家法に詳細な規定が設けられている。
なお、建物の賃貸借は、独立の建物のみではなく、「建物の一部であっても」障壁その他によって他の部分と区画され、独占的排他的支配が可能な構造・規模を有するものは、本条の「建物」に該当すると解されている(最判昭42年6月2日民集21巻6号1433頁)。しかし、これは、あくまでも債権である賃借権の対象についての要件であるから、建物区分所有法のように厳格に(例えば、登記の可能性の観点など)解すべきではない。

第三に、「特別の定め」の意味について触れる。建物の所有を目的とする土地利用権も建物の利用権も、民法に規定が設けられている。したがって、借地借家法は民法の特別法であるとの意味を表すものとして「特別の定めをする」という表現がとられた。民法の規定は、地上権および賃借権について、存続期間・契約の更新・効力などに関するものであるから、それらの諸規定に対して特別の定めをすることにより、借地借家法は実体法規を主体とする民法に対する特別法となろう。


(2)借地・借家に関する法律沿革


@古代・中世・近世における土地利用関係


我が国の状況について資料で調べられる法制は平安時代における律令制であろう。もちろん、聖徳太子による17条憲法はさらに年代が古いとされるがその存在自体に不明な点も多い。
律令制における借地・借家関係については多くは触れらていない。律令はその性質上、大化の改新によって支配権を握った畿内および近国の貴族層が、それまでの地方豪族による支配を排斥し、官僚機構によって人民の末端にいたるまで統治するための法であった。現在でいうところの憲法(公法)にあたる性質といえよう。したがって、私法に位置付けられる賃貸借契約については触れられていないばかりか、当時の一般庶民の生活環境を考慮して作られた形跡もない。

幕藩体制が確立した江戸時代における土地利用関係は、諸説あるが、天皇から統治を任された幕府が全国の土地の所有権を有していたとみることができる。ただ、江戸の土地は基本的に幕府が所有していたが、町人地では土地の私有が認められ、沽券地のように売買も行なわれていた土地もあったといわれている。沽券地は、沽券と呼ばれる土地売買証文が用意されている土地のことをいう。この私有化された土地は地主が所有していたが、一般的に地主はその土地には居住ず、家守がその土地に住み、同時に土地などの管理もしていた。
また、私有化された地主の土地は商人も借りていた。さらに、農村から江戸に流入した貧農や職人などは、裏長屋を借り店子(現在の借家人)として居住していた。
江戸の借家(長屋)関係には以下のものがありました。
・表長屋…狭いながらも菓子や小間物、荒物などを商うことのできる店舗付住宅のようなものをいう。
・裏長屋…棟割長屋と割長屋があり、棟割長屋は屋根の棟のところで仕切り、背中合わせに部屋が作られた形で、両隣だけでなく背中合わせにも隣の住人がいる造りをいい、平均的な大きさは、間口が1間半(約2.7m)、奥行きが2間(約3.6m)であった。それに対して、割長屋は6畳間で、梯子をかけて上る物置のような中2階も付いていた。
長屋の店賃(現在の賃料)は、当時普通に働けば2・3日で稼げる程度と言われている。
上記以外にも、大店の番頭や手代で所帯を持った者を住まわせるための2・3部屋タイプや4部屋の2階建てタイプなどもあった。


A明治31年 民法による規律


幕末の黒船来航以来、我が国は一気に国際化に進み、不平等条約撤廃を急いでいた明治政府は国の土台造りを西洋の法制度に学んだ。主にフランス法を範とした民法が明治31年に施行される。その特徴は、近代革命思想が色濃いところにある。すなわち、ブルジョアジーを中心とする商業至上主義ともいえる極端な自由化と資本主義の実現のための所有権の絶対、過失責任の原則、私的自治の原則、権利における万民平等である。
民法では、建物を所有するために他人の土地を利用する権利として、使用借権(民法593条〜600条)、賃借権(民法601条〜621条)、地上権(民法265条から269条の2)が定められている。しかし、使用借権や賃借権は債権であり、契約自由の原則の下で土地を借りる者の地位は極めて劣弱であった。譲渡性、担保性もなく、対抗力ですら賃借権には登記請求権がないので無いに等しい(使用借権は元々対抗力はない)。一方、地上権は物権であるから、利用権(用益権)としては強い権利であるが、住宅・ビルの所有のためにする規定内容はあまりにも少ない(存続期間の定めがないので当事者の合意に委ねられており、更新に関する規定もなく、終了時・地上権譲渡時の建物買取請求権の有無についても規定がない)。
それに対して、他人の建物を利用する権利は、使用借権と賃借権である。使用借権は土地と同様に特殊な関係で用いられるにすぎない。賃借権が通常用いられるが、土地賃借人と同じくその地位は極めて劣弱である。
ただ、民法制定時は、住宅問題が、小作問題ほど深刻ではなかったことから、立法者は住宅事情との関係では民法の規定だけで大きな支障はなかった。

また、民法により所有権が保障されるとともに、明治政府は財政の安定のため土地の所有者を納税義務者とする新たな税制を布く。すなわち、1873年(明治6年)7月28日に地租改正法(上諭と地代の3%を地租とする旨を記載した1ヶ条で構成)と具体的な規定を定めた地租改正条例などから成る太政官布告第272号が制定された。一般庶民にはとても納付できなかったと言われている。したがって、土地持ちの農家の人の中には自ら地域の有力者に所有権を譲り、小作となるものも出てきた。また、都市部でも同様で、土地を購入するよりも、借地に家を造ることが主流になって行く。こうして都会を中心に借地人が誕生した。

B明治42年 建物保護法による規律


明治初期においては綿紡績業を中心に飛躍的に産業の近代化が進む。重工業の発展もこれに追いつく形で発展し、1905年に池貝鉄工所がアメリカ式旋盤の完全製作に成功するなど、技術面で大きな進展がみられた。また、1910年代から20年余りの間に、工場の動力源として電力の普及が急速に進んだと言われている。
この産業の発展は、当然に都市部における地価の上昇を招くことになった。この時、最も深刻な危機に陥ったのは土地賃借人であった。具体的には、次のような状況が蔓延した。すなわち、地主は貸地を第三者に売却した。この売却は仮装売買が多かったが、その立証は困難であったので、結局抵抗力を有しない借地人は泣く泣く建物を取り壊して土地を明け渡さざるを得なかった(地震売買)。民法における土地賃借権には登記請求権がなかったので、このような結果を招いたといえよう。
その結果、明治42年に「建物保護ニ関スル法律」が制定され、建物所有者(土地賃借人)が単独で行える建物の登記に対抗要件を与えられるようになった。

C大正10年 借地法・借家法


日露戦争後の約10年間、日本経済は着実な発展を遂げてはいたが、国際収支はつねに赤字であった。しかし、1914年(大正3年)7月、ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発すると、一次的に恐慌状態となったが、翌1915年(大正4年)の後半から好況に転じた。ロシア帝国やイギリスなどの交戦諸国は、不足する軍需品などの供給を日本に求めたからである。特に鉱山、造船、商事の3業種は花形産業として潤った。世界大戦前まで約11億円の債務国だった日本は、1920年(大正9年)には27.7億円以上の対外債権を有する債権国に転換している。その結果、工場労働者は第一次世界大戦開始の1914年には85万人であったが、5年後の1919年には147万人と2倍近い増加を示し、特に重化学工業の発展の結果、男子労働者が急造した。商業・サービス業の発達もめざましく、都市への人口集中が目立った。京浜工業地帯、中京工業地帯、阪神工業地帯、北九州工業地帯が鉄鋼、化学、機械などの分野を中心に形成されていった。
しかし、その裏側では住宅問題が発生していた。そこで、大正10年に至り、借地法と借家法という2つの法律が成立した。借地法は、借地権の存続期間、建物買取請求権、建物の朽廃・滅失のときの関係などにつき強行規定を設け、また地代増減額請求権その他につき民法に規定されていない事項を定めた。借家法は、建物の引渡しを賃貸借の登記と同様の効力を有する対抗要件として定め、借家権の存続期間、家賃増減額請求権、造作買取請求権などにつき規定を設けた。

D昭和14年 地代家賃統制令


戦争遂行のため国家総動員法19条に基づく勅令として地代家賃統制令が定められた。同勅令は1939年10月20日から施行され、既存の借地借家の賃貸料は1938年8月4日付で凍結されることとなった(停止統制額)。翌年に出された勅令第678号により、新たに契約される地代家賃も統制の対象とされた(認可統制額)。戦後も民生安定のために統制が継続され、1946年にポツダム勅令(勅令443号)となった。その後の物価上昇により、1950年にも改正され、新築住宅と非住宅は統制対象から外された。1956年の改正で、延べ面積が100平方メートルを超える住宅も統制外とされ、1960年代に入ると、統制の意味が薄くなり、家主に犠牲を強いているとして廃止が提案されたが、国会を通過できなかった。1985年「許可、認可等民間活動に係る規制の整理及び合理化に関する法律(昭和60年法律第102号)」により、1986年12月31日で失効した。

E昭和16年 借地法一部改正・借家法一部改正


 昭和12年、日中戦争が勃発し軍需生産が急速に拡大するにつれて、大都市工業地帯への労働者の流入が増大し、住宅難が激しくなりました。
 このような住宅難は家賃の高騰と狭小居住を招きました。家賃については前述した昭和14年の「地代家賃統制令」によって、昭和13年8月4日現在の基準にすえ置くことになっていたが、それは統制令施行当時からの既存の家賃についてだけであり、新たに契約する家賃は直接停止令の適用を受けず、ただその主旨を尊重してできるかぎり低く定めるという程度のものだったから、これを利用して家賃のつり上げが盛んに行なわれました。
 そして、総力戦体制の下で物資統制のため建築資材は欠乏し、労働力は不足するという状況が続いたので、住宅難は深刻化していきました。
 そこで、昭和16年、政府は借地・借家法を改正し、更新拒絶ないし解約申入れによる借地人・借家人の追出しを防止するため、「正当事由」制度を導入しました。

日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働者状態
第五編 物価・配給統制と労働者の生活
第二章 配給、消費、生活実態
https://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/senji1/rnsenji1-156.html

F昭和41年 借地法一部改正 借家法の一部改正


 第二次大戦末期のわが国の都市のほとんどが空爆を受けたので、戦後は住宅の絶対的飢餓状況が続きました。そこで、昭和31年、法制審議会民法部において、@現行法が現在の社会事情に適合せず、紛争解決に十分ではなかったこと、A土地建物の使用の高度化に関する規定の整備が必要なこと、B借地権による金融の便宜を増進する必要があることなどを理由として、借地法・借家法の改正準備会を発足しました。同準備会で昭和35年に借地借家法改正要綱案が発表されました。
 同要綱案は、借地法・借家法を全面改正し、一本の単行法に統合するものでした。借地権を物権と捉える画期的なものでしたが、各界一部の反対意見も強く、立法には至りませんでした。
 その後、喫緊の課題のみを改正点として検討がなされ、昭和41年に一部改正の法律として成立しました。改正内容は、@非堅固建物の堅固建物への変更、増改築、建物の譲渡および競売に伴う土地賃借権の譲渡及び転貸についての借地非訟事件手続の導入、A地代増減額請求権について借地人が適当と思う額を提供していれば、裁判所が判定した相当額に満たない場合でも債務不履行とならないと改定したことです。借家法では、@地代と同様の家賃増減額請求権の改定、A相続人不存在の場合の内縁配偶者等への借家権の帰属を盛り込んだことです。

G平成3年 借地借家法の成立


 建物保護法、借地法、借家法が一本化されて「借地借家法」という法律が制定されました。
 昭和50年頃から、住宅数は世帯数を上回るようになり、空家率も10%近くになりました。しかし、住宅事情は地価の上昇により、「遠・高
狭」に象徴される有り余る中の貧困の問題を抱えていました。借地法・借家法はもともと住宅不足という社会事情を背景として登場してきたので、その根底が揺らいできたとも言えます。
 また、民間アパート・マンションの氾濫のほか公共賃貸住宅も相当に増加し、従来の定住型借家と異なるタイプの非定住型借家も現れはじめました。
 さらに、利用価値を遥かに上回る高地価を原因として出現した、借地権価格・更新料・立退料・保証金・建設協力金、礼金など地代・家賃以外の金銭授受が常態化するようになりました。
 このような社会状況の変化により、昭和60年10月、借地法・借家法の改正作業が法務省で行われるようになりました。
 この借地借家法では、普通借地権の存続期間の変更、正当事由の明確化、、定期借地権の創設、自己借地権の創設、期限付借家権の創設など大きな改正・新設事項を認め、その他にお多くの変更事項を包含します。

H平成11年 賃貸住宅供給促進特別措置法


 平成11年に「良質な賃貸住宅等の供給の促進に関する特別措置法」が自民党、自由党、公明党、民主党による議員立法により制定され、定期借家権が創設されました。

I平成19年 借地借家法一部改正


 議員立法により、「事業用定期借地権等」に関する制度が改められました。

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